2024年11月20日(水)雑穀谷に向かうが、積雪のため桂台のゲートは閉まっていた。
来週もう一度登りたいが、天候次第で今シーズンの雑穀はもう終了かもしれない。
新しくルート開拓してくれた人や、行くたびにパートナーとなってくれた人たちのおかげで、今年もクライミングを楽しむことができた。
来年も今年以上に雑穀で登れるようにゲッコーでトレーニングしたいと思う。
2024年11月20日(水)雑穀谷に向かうが、積雪のため桂台のゲートは閉まっていた。
来週もう一度登りたいが、天候次第で今シーズンの雑穀はもう終了かもしれない。
新しくルート開拓してくれた人や、行くたびにパートナーとなってくれた人たちのおかげで、今年もクライミングを楽しむことができた。
来年も今年以上に雑穀で登れるようにゲッコーでトレーニングしたいと思う。
思い込みは危ないと思った。
ここしばらく肩回りが痛く、腰も張る。トレーニングをしても強くなるという感覚がなく、現状維持もしくは緩やかな下降の状態が続いていた。少し調子がいいなと思って多めに登ると、筋が切れたり…。60歳を超えて、これらの状態は老化であると思っていた。長くクライミングやランニングを楽しむにはこの痛みとうまく付き合っていかなければ、体力の衰えは受け入れなければならないと考えていた。達観した自分に少し酔っている節もあったかも。そのうちとうとう両膝が痛くなり、山の下りが辛くなり、7月26日の富士登山競走はスタートラインには立ったが、出走は断念した。歩くのもかなりつらい状態。
しかしである、その後膝のMRIを撮るなどしたが、老化による変形はそれなりあるものの、痛みの原因は見当たらず。そこで私はふと思い至った。7年前、酷い痛風になり、5年間尿酸値を下げる薬を飲み続けた。その間、痛風の症状は1回も現れなかった。医者の提案で一度薬をやめてみるかと言われ、1年半以上薬を飲んでいない。もしかしてこの痛みや、不調は尿酸値が再び上がっているのではないだろうか。長いこと薬を飲んでいないと、自分が痛風持ちであることも忘れていた。で、自宅に残っていた薬を8月7日に1錠飲んでみた。
翌日、痛みは嘘みたいに軽くなった。もちろん完全に痛くなくなったわけではないが、この数か月の辛さはいったい何だったのか?と思うほど、関節が軽く楽になった。
もしも薬が家に残っていなければ、あの痛さを抱えたまますべてを老化のせいにして憂鬱な生活を続けていたかもしれない。老化という思い込みはあまり強く持ってはいけないと思った。自分はまだまだやれる。
この夏の経験を糧に体をいたわりながら鍛えて、クライミングやランニング、登山などをさらに楽しんでいこうと思う今日このごろである。
雑穀谷にテスというルートがある。昨日(20024年5月22日)も触ってきた。ここ何年も登れていない。毎年、何回か登ろうとするのだが、登れない。でも、昨日はいい感じになってきた。あと、1,2手、1歩、2歩といったところだろうか。ふと、この1手、1歩にクライミングが凝縮されているな、と大げさなことを考えた。
年をとると言い訳、愚痴、思い出話が会話とか日頃の考えの大半を占める。そんな自分が嫌だなと思いつつも、どうしてもそうなってしまう。テスに関して言えば、昔はこんなん何回も登っているんだと、聞かれもせんのに言ってみたり、夏場はホールドがぬめってだめだとか、体重が増えたから無理とか、可動域がどうのこうのとか、指力がとか、あいつは軽いから登れるとか、若いから登れるとか、チビは有利だとか、あいつはヘタだ、テスはチンケだとか、語り始めるときりがない。クライミングとは体力、テクニックだけでなく、見栄や虚勢、恐怖など精神的な要素もとても大きい。その時の景色、今だったら新緑とか爽やかな風とか、そのときのビレーヤーとの関係性とか、まわりにいる人との会話とかも構成要素といえる。
テスの出せない、1手、1歩、に似せたホールドをジムの壁にセットして練習してみたり、体幹を意識してみたり、走ってみたり、トレーニング効果を実際のクライミングで感じれた時に大きな喜びを感じる。今のテスの一歩がそれに近い。長い間感じていたテスの困難性が、ちょっと自分的にピント外れだったな、と思えるところに、自分のクライミングの伸びしろを感じれたり。いろんな意味で今、テスにトライするのが楽しい。来週は登れるかな?
2024年になり早くも一ヶ月が過ぎようとしている。1月の目標は残念ながら達成できずに終わりそうだ。しかし、おおむね良い流れの中にいる。情報の海に溺れず、自分の頭の中をすっきりと整理整頓する。目標に向かってできるだけまっすぐに、回り道しない練習を心がける。当然、いつもうまくいくとは限らない。「わからない状態」を我慢する耐久力が大事。継続が基本中の基本。次なる私のピリオドは6月。フリークライミングジム ゲッコーは迷えるクライマーとともに北極星を見つけたい。
2024年は震度5+で幕を開けた。元旦の昼過ぎまでは、雪もなく穏やかでよい正月だ、と思っていたのに。クライミングのモチベーションが上がらないとか、寒くて走れないとか、勉強できないなどと言っている場合ではない。今、生きている幸運を、日々の活力に変えなければ。
長らく発信の気持ちが起きなかった。
ここ数年、コロナ、親や親類の高齢化や逝去、自分の高齢化などからいろいろと気分が滅入っていた。自分のクライミング?、ジムをどうするか?、親の介護は?、不安はつきない。
しかし、このところ、自分の生活やクライミングを向上させるのに、ゲッコーというジムがやはりなくてはならないと再確認している。
ゲッコーはクライミングに行きたいのに、家庭や仕事で行けないクライマーのために1996年に立ち上げた。もちろんそのクライマーの筆頭が自分であるわけであるが、27年の時間の中で、ジムの経営が、逆に自分がクライミングに行けない足かせだと思うようになった。
どうあがいた所で人は老いて死んでいく。現在61歳の自分のクライミング人生もそんなに長くはない。ゲッコーを大切にし、切磋琢磨の気持ちを新たにする、2023の秋である。
昨年11月にこのWebサイトに不正アクセスがあり、更新できない状態が続いていた。
早急に対処すべきところだったが億劫で行動に移せなかったのが実情。
フリークライミングジム ゲッコーは1995年3月にオープンした。
27年がたった。
コロナやウクライナ侵攻は平和の儚さ、有難さ、尊さを教えてくれている。
私も永遠と言えるものはないと実感できる年齢になってきた。
美しき終焉というのは難しい。しかし新たな気持ちでジムを運営していきたいと思う。
それにしても大変なことになったものだ。2020年がまさかこんな状況になるとは思ってもみなかった。しばらくしたら収束に向かうのか、それともまだまだ序の口なのか、全くわからない。かと言ってどうすればいいかもわからない。ジムは開店休業状態、トレーニングのモチベーションも上がらないので、クライミングのYouTube動画ばかり見ている。自分が惹きつけられるのは最新の高難度ルートよりも、フリークライミングの歴史がしみ込んだクラシック・ルートを登る動画だ。とりわけここ数日はヨセミテのセパレート・リアリティーというルーフ・クラックにはまった。検索するとすぐに10近くの動画を見ることができる。ハインツ・ツァクのフリーソロが特に良く3回程観た。ゲッコーにもセパ・レアを模したクラックがあるので、お客さんのいない今、久しぶりに練習してみよう。
ゲッコーにはしばしば、一人でボルダリングしたいという人が訪れる。全く自然な感情だと自分は思う。ジムがこれだけ増えボルダリングが大衆化すると、みんなでワイワイ登るのが楽しいという風潮一色となり、一人で静かに派はスミに追いやられてしまう。数によって支配される一般的価値から離れたところにクライミングの魅力があったはずなのに、クライミングの窓口であるジムがその魅力を伝えることができないでいいのか?お客さんが増えなければ経営は成り立たないが、マナーなども含め、クライミングの人間的側面、個人的側面を大切に考えていきたい。混んでいても一人一人の世界が尊重されるジムを目指したい。
ゲッコーのマットの破れがかなりひどくなってきた。マットを新調する余裕は全くないので、補修に補修を重ねている。いろんなやり方を試行錯誤してきたが、針と糸で手縫いするのが一番良いというのが現在の結論。針の長さ、太さ、糸の材質などもいろいろ試した。右手に皮手袋をはめるというのも作業の中でわかった。数メートルにも亘ってしまった破れを縫うのは、一針5㎜弱の作業では少々うんざりする。でも、今日は50㎝と決めてマジックで印をつけてやるといい感じで集中できる。日々こんな地味な作業をやっているのであるが、結局クライミングのトレーニングもそこが重要だとふと思った。
つまり、自分で根気よく試行錯誤してやり方を編み出し、明確な小さい目標をうまく設定し、破れが大きくなる前に小さいうちに縫った方が楽なように、トレーニングも日々コツコツ弱点をイメージして続けるしかない。