ゲッコー通信

2018年11月29日(木)

同じルートを登ることから見えてくるもの

こんな経験はないだろうか?

中学や高校時代の課題図書で夏目漱石をむりやり読んで、まったく面白くもなんともなかったものが、大人になってからもう一度読んでみると、その面白さに驚いてしまう。若い時に感じる面白さと、年齢を重ねるなかで感じる面白さの質が変化するからだろう。

クライミングにもそれは言える。若い時トレーニングをガンガンやってやっと登れたルートを10年20年後にまたトライしてみる。力づくでねじ伏せた感のあるルートが今やると全くだめどころか、意外に簡単に登れてしまうこともある。極小のスタンスに足を乗せる冷静さが経験により身についたりして、筋力的にかなり衰えていても登れることがあるわけだ。今増えているボルダリングジムでは、なかなかこんな体験はできない。ゲッコーでもジムのボルダリングだけではなかなかこの辺のことが伝えられないけど、生岩クライミング教室や会話の中で伝えることはできる。クライミングが子供から大人までそれぞれの愉しみ方ができる奥の深いものであることの一例だと思う。何事も一長一短があるわけだが、グレードしか見えていないクライミングとか、次々と課題チェンジする消費化に走るボルダリングからは見えないクライミングの魅力かもしれない。

ゲッコー通信

11月18日(日)

日日是好日

11月としては暖かい日曜の午後。新しい男性数名にいつもの子供たちと父親、母親その他。ボルダリングは自分の日常だが、寒さが身に染みる年齢、暖かい日は気持ちよく体が動く。子どもたちを観察していると面白い。ほんの2時間程の短い時間の中で仲良く遊んだり、少々険悪になったり泣いたり笑ったり目まぐるしい。多分そのような豊かな感情の変化があるから一日が長く感じるのだろう。年齢を重ねるに従い感情の起伏は穏やかになり日々が飛ぶように過ぎていく。それは決して悪いことではないと思うけど、こうやって子供と触れ合ったり、時には年齢の離れた年下の人、また時には人生の先輩と過ごせば一日はより豊かになる。ジムでのボルダリングやクライミングは自分のペースで体を動かしながら、気安く人と話ができる時間が持てることも一つの効用であると思った。

ゲッコー通信

2018年11月17日(土)

文章について、あるいは上達について

自分が面白いとか好きだと思う文章に出会いたいと常々思っている。そして頻繁に書店を彷徨う。またそんな文章を自分でも書けないかと夢想する。あわよくばそんな文章を人が読んで買ってくれないかと妄想する。世の中にはそんな愚か者をカモに、文章読本とか小説作法といった類の本が氾濫している。文章に限らずスポーツとか楽器演奏とかの教則本も多い。クライミングやボルダリングの本もずいぶんと増えた。

プロ野球の松井秀樹が引退後、新聞にコラムを連載していた時があった。それは我が家で購読している北日本新聞にも載っていて、一読後その文章に魅かれた自分は次の掲載を心待ちにしていた。のちに「エキストラ・イニングス 僕の野球論」と単行本化され改めて買って読んでもみた。松井の文章の何に魅かれたのだろうか?文章のプロでもない松井が書いている意外性か?隣県石川出身の親近感か、単に松井が好きなのか?普通の文章なんだけど、まじめさとか知性とか深く考えているんだなといった雰囲気が伝わってくる、それもどこか爽やかに。文体ともいえないし、自分がいいなーと思うとしか今のところ表現できない。

自分がいい感じだと思う文章がなぜそうなのか辛抱強く考えることをしないで、すぐにハウトゥー情報にその答えを探そうとする。その安易さが上達を阻んでいる。というか何につけ上達したいとか、うまくやろう、効率よくやろうと思ってしまう。そう思った瞬間に捕まえたい物事がスルリと逃げて隠れてしまう。ゲッコーの存在がこれを象徴しているのだが、ゲッコーを通してクライミングすることが上達への近道であるというパラドクスも成り立つのではないか?なんてことも妄想する。

ゲッコー通信

2018年11月16日(金)

暖冬?暖冬になってぇ~。

11月1日に出したストーブにまだ点火していない。夜ジムに来る子供やお客さんの第一声が「寒い」だが、まだ点けていない。灯油代をケチっていることもあるけど、登り始めると丁度良い位に体が温まってくる程の気温には、今のところ納まっている。ここ最近、子供が体を痛めたということがゲッコーであるけど、この寒さが関係しているはず。しかし、5,6年前は極寒のゲッコーでもこおいうことはなかった。自分も寒い中やるのもボルダリングだと強く思っていた。今、ジムに来ている大人や子供が弱くなったのではなく、ボルダリングをとりまく環境全体が変化して各地のボルダリングコミュニティの感覚が快適性に傾いているのだと思う。つまり「寒さ」とは単に気温で感じるだけではなく、自分の置かれている雰囲気、環境で感じるものだ。

社会的なクライミング観が数年前とは変わったということだ。一つのマイナーな事象がメジャーに変わる時たいてい起こる現象ではないだろうか。クライミングシューズからして快適でないから、少しでもきついシューズははけないというお客さんが多くなった。クライミングとは何か?ボルダリングとは何か?レジャーとは、スポーツとは、登山とは、武道、茶道との共通点は違いは、資本主義とは、教育とは、仕事とは、遊びとは、老化とは…様々な疑問に迷いながら、ゲッコーを続ける先に自分の求める何かがあるというのか?

いや待て!「懐が寒い」とは、実際に寒いのではなくお金がなくて心に余裕がないということ。こんな文章は単なる儲からないジムオーナーの嘆きに過ぎないんだな。資本主義社会の中で敗れつつある者の愚痴に過ぎないんだな。

同情するなら金をくれ。こんな文章は誰も読みたくないだろうな。いやでもあえて公開しよう。自分の文章が磨かれる過程あるいはこの20数年ゲッコーと生きてきた証として。

ゲッコー通信

11月1日(木)

冬支度

ストーブを出した。日中、点けようかとも思ったが意外に暖かいのでやめる。夜お客さんが居てその時冷え込んでいたら点けよう。一昨日は扇風機を仕舞った。ゲッコーにあるこの使い込んだ冷暖機器、出すときも仕舞う時も季節の移ろいや、これまでのジムの来し方を感じずにはいられない。クライミングやボルダリングはスポーツとしての面が今大きく世の中に広がっているけど、小川山のカラマツの黄葉の中でのボルダリングだとか、雑穀谷の秋の青空だとか自然を感じる登山の一分野としてのクライミングを忘れたくない。ゲッコーはそんなクライミングを伝え実践する場であり続けたい。仕事終わりはゲッコーで登り休みの日は外へ出かけよう。